「理解」と「記憶」

我々が学校で物事を学ぶとき、ほとんどの場合はおそらく「記憶」をすることが優先になるであろう。理解をすれば実践ができるなどという嘘を吹き込まれる。プログラマーになってからわかったのだが、やはり実践してから失敗から学ぶという方法のほうが何倍も効率的であった。例えばの話だが、やりたいことのために大学に4年間通って「学ぶ」よりも先にやりたいことを失敗しながらも4年間やっている方が何倍も効率的、みたいな話だ。というか、そっちの方法は必ず成功する。

私が尊敬する人のほとんどは物事を理解することが得意な人だ。そのたちに説明を頼むとかなりシンプルに説明してくれる。こっちは説明を聞いてどれだけ理解ができているか分かっちゃったりもする。

ということで「理解する」というのは、物事を自分からどれだけシンプルに説明できるかということではないだろうか。我々が学校で英語を7年以上学んでおきながら喋れない理由も「記憶」させているのであって「理解」はさせていないからなのかもしれない。我々は日本語を日常的に使っているので、日本語を「理解している」と言える。いちいち話す度に一から動詞、名詞、形容詞の要素を細かく考えているような「覚えて」いる人間を私は見たことはない。

SNSを使うときは物事を「覚える」のではなく「理解」をしてほしい。