教育ビジネス

 ちょっと前に教育というものが、産業になっているということを聞いたことがある。教育というと子どもたちに物事の本質を教えるという純粋なイメージがあったりする。しかし、ここにはきたない大人の策略も入っているというのだ。

産業というと自動車、飲食などいろいろを思い浮かべられる。アメリカでは刑務所も産業化しているらしい。私が見る限り、産業というと金になる人間が集まることで条件が整う。これで教育となるとなおさらだ。

教育という名目で稼いでいる所といえば、私立の小中高、塾、大学は一般的に考えられる。私としては教養のために小学校、中学校までは通った方がいいとは思うが、高校から大学となるとだんだんビジネスの色が出始める感じがあったりもする。高校と大学は払う物に対して得るものが的外れだ。自分に対する投資としては最悪。こっちは就職するための書類をもらいたいのに余計に専門的な知識を詰め込まれた。もらった書類も新卒以外人生の大半では関係がない。教えられた知識も興味が無かったのですぐ忘れる。今使っている知識は割と独学の比率が多い。私個人の後悔というと、もう少し自分に対して投資をすればよかったということだ。

本性

今回のコロナ伝染病によって日本という国家がどれだけ楽観的なのかを再確認することができた。最近あった非常事態宣言の解除に対する社会の変化については特にがっかりした。簡単に言えば、よーいドンだ。解除した途端にいきなり何事も無かったかのようにみんな電車で通勤を始めていた。命より仕事が大事なのであろうか。それに、アベノマスクを製造するための予算の一部がどう見ても保守党のペーパカンパニーに入っているし、学校は友達とおしゃべりをすることもできない言葉通り勉強する場所と化してしまった。

つまらない

これでは津波が来れば現金を避難所に持っていくような勢いだ。少し前の時代でこんな事が起きれば、保守党は引きずり降ろされ、デモが街中を覆っていたであろう。なぜなら、それほどバカバカしい事が起きているからだ。日本人は自主性を失ったというのは聞いたことはあったが、私もそれをやっと理解することができた。

集まりすぎ

最近の子どもたちにはスケートボードというものが流行っているらしい。高校生くらいの子たちが技を練習している姿を最近はよく見る。ただ高校生という高校生を見る度にセットになっているのがスケートボードだ。「いやいや、みんなやってるのかよ」と毎回思ってしまう。

私としては、スケートボードというと、アヴリル ラヴィーンらへんの10代のカウンターカルチャーのイメージが強い。しかし、今ではカウンターカルチャーの敵であった真面目ちゃんまで始めてしまった。そうなると、ちょっとした寂しささえを感じる。

元々、十代カウンターカルチャーというのは大人に媚を売るようなことはあまりやらないという記憶がある。そして、とにかく学校を嫌う。カウンターカルチャーを信仰する人間を真面目ちゃんは社会不適合者と呼ぶ。私の個人的な考えだが、社会不適合者が消えたおかげで最近の社会に活気が全くなくなったような気がする。テレビもつまらないし、新しいイノベーションも無くなった。日本となるとなおさらであろう。アメリカで成功した人間の殆どは社会不適合者だ。媚を売るような人間はそもそも成功もできない。

カウンターカルチャーよ蘇ってくれ....

「理解」と「記憶」

我々が学校で物事を学ぶとき、ほとんどの場合はおそらく「記憶」をすることが優先になるであろう。理解をすれば実践ができるなどという嘘を吹き込まれる。プログラマーになってからわかったのだが、やはり実践してから失敗から学ぶという方法のほうが何倍も効率的であった。例えばの話だが、やりたいことのために大学に4年間通って「学ぶ」よりも先にやりたいことを失敗しながらも4年間やっている方が何倍も効率的、みたいな話だ。というか、そっちの方法は必ず成功する。

私が尊敬する人のほとんどは物事を理解することが得意な人だ。そのたちに説明を頼むとかなりシンプルに説明してくれる。こっちは説明を聞いてどれだけ理解ができているか分かっちゃったりもする。

ということで「理解する」というのは、物事を自分からどれだけシンプルに説明できるかということではないだろうか。我々が学校で英語を7年以上学んでおきながら喋れない理由も「記憶」させているのであって「理解」はさせていないからなのかもしれない。我々は日本語を日常的に使っているので、日本語を「理解している」と言える。いちいち話す度に一から動詞、名詞、形容詞の要素を細かく考えているような「覚えて」いる人間を私は見たことはない。

SNSを使うときは物事を「覚える」のではなく「理解」をしてほしい。

価値というものはほかの人から比べられてこそ決まる。人間社会で生きている限りはこんなのは当たり前だ。人間という物、ほかの人間と違うことを嫌う。自然社会では1人で生きていくなど自殺行為と同じだから。実は、一人狼というのはかっこよく表現されることが多いが、自然の中では群れから見放された敗者である場合が多い。

しかし、

我々が生きているのは自然とは反対の世界である。「人間社会」だ。少なくとも、今あなたが画面を通してこの文章を読んでいるのであれば。原始人からすれば今の時代は魔法のようなものであろう。夜、火を使わなくても出歩けるし、狩りをせずとも食べ物を簡単に手に入れることができる。しかも「お金」という数字が書かれた紙切れ1枚でほかの人間を動かすことのできる時代なのだから。これが可能になったのは今、私とあなたが「人間社会」というものに属しているからだ。原始人が生きていた「自然社会」ではできなかったことが魔法で出来るようになった時代なのかもしれない。

「自然社会」という考えは「人間社会」から見れば時代遅れなのであろう。私の知る限り、自然社会の法則に従っている人は、カーストの上の方には行けない。例えば、「群れれば安全」というもの。私としては、今の学生たちを魚の群れに考えればわかりやすい。順位を上げたところ群れる魚だ。まとめて網に捕まって食われるのが運命だ。

もしあなたが学生なのであれば、ほかの人間から見て「異常」になることを行動原理としてほしい。「自分のやりたいことを仕事にすること」にすべての力を注いでほしい。楽しい大学を卒業したところで待っているのは50年間のスーツとネクタイだけだ。

トランポリン

自転車で帰る途中、子どもたちが家の庭でトランポリンで遊んでいるのを見た。やはり法律的には大人と言われてはいても、男であればトランポリンで遊びたいのは同じなんだろう。また、ここで私の無駄に豊かな想像力が発揮される。

「人生ってトランポリンで遊ぶようなものじゃないかな」

中二病がまだ残っている。

トランポリンというとひたすらジャンプをして遊ぶ遊具だ。上でひたすら立っているなどただの苦痛だ。しかし、ジャンプをして高く飛べば飛ぶほどスリルもあって楽しい。これは私個人の意見だが、「サラリーマン」と「成功を手にした人間(自分の夢を追っている人)」の違いというのは、このトランポリンでジャンプしているか、していないかの違いではないかと考える。

こう考える根拠としては、

「サラリーマン」というのは1ヶ月間ひたすら働き、給料をもらう。そして出世という「夢」とともに約50年間同じような仕事をしていく。つまりは「安定(y=xみたいな)」で、絶対的な観点から見ればトランポリンの上で立っているだけの方だ。

それに対して、どんな意味でもよいが「成功を手にした人間」は「安定」には満足できない、いわゆる「欲張り屋」である。この人間共は飛んで沈むということを繰り返す、ジャンプを繰り返せば繰り返すほど高度も大きくなり、沈みも同時に大きくなる。ここでの「高度」とはあらゆる意味での成功で、沈みは、リスクあるいは失敗ではないかと思う。つまり、こっちは「不安定、不確定」の方である。

 

考えを文字に起こすのはやったことが無いので、説明がかなりガタガタではあったが、シンプルにまとめると「人生のトランポリンでどう遊ぶか」という事だけであろう。

フォロワーがほしい

フォロワーがほしいというそこのあなた。よくぞ読んでくれた。ほかのサイトでは絶対に得られないような情報を私が伝授しよう。

方法はただ1つ、「SNSをやめること」だ。

ここまでの人生で私自身、SNSという物をあまりさわった事がないのだが第3者の目線から見ていると、全部安っぽいということだ。結局は朝昼晩の料理をアップロードしたところで誰も興味はない。というかみんなやっている。野球の歓声の中であなたが叫んだところでテレビから見る人間からすればただの歓声である。 

しかし、

私がただやめろというだけではつまらないであろう。ということで社会不適合者の代案だ。

あなたは「フォロワー」の本当の意味を知っているであろうか。英語に訳せば"Follower"。つまり、「追う人」または「付いていく人」である。もし、あなたが「フォロワー」で、ただの一般人、つまり会社員の日常を「フォロー」したいであろうか。どっちかといえば何かしら社会的な肩書がある人の方を「フォロー」したいであろう。つまりは、芸能人、起業家、帰国子女みたいな社会の少数人口の方にバイアスがあるのであろう。

ならば、少数人口に属せるようになる、つまりは他人と違う人生を生きることに注力したほうがフォロワーなんかいくらでも増える。私個人としては多様性がある社会のほうが絶対に楽しいと思う。

やり方なんてのは簡単、あなたの周りにいる「人間という人間」と椅子取りゲームをすればよいのだ。あなたが何かをやろうとしていて、そのアイデアが他の人にすでに取られていれば「ちっ、他の椅子に座るか」と他の椅子に座ればいい。別に取られた椅子の隣に座ってもよいのだ。