学校が嫌い。

この記事を読んでいる人々のほとんどは、一度でも学校に通ったことのある人であろうと思う。今頃「学校に通ったことないんです」なんて人は私が生きてきた中で会ったことはない。これも日本の義務教育の力なのであろう。

そんな恵まれた私達が、学校に通っていて誰もが一度でも考えることは「学校が嫌い」あるいは「これ意味ある?」ということであろう。当たり前だ、ほんとうにつまらないのだから。12年間、学校にスキップしながら通っていたような人は今すぐ読むのをやめたほうがよい。

私が見ている学校というのは、学びの場というよりは同年代の子供たちが集まる場所というイメージが強い。12年間の生活で人間関係を学び、構築することによって成長できるという部分は学校の良い部分ではあると考えてはいる。

しかし、

これ以外となると話は180度変わる。個人的に私は「課題」と「宿題」というものが大嫌いであった。学校が終わって、家に帰っても学校に首輪をつけられているような感覚で気に入らなかったからだ。それに課題をやったところで何も学ぶものはなかった。反論する人に聞いてみよう、今すぐ紙とペンを取り出して10秒以内に二次方程式の解の公式を書いてみてほしい。

もし、あなたが書けたとしたら「おめでとう」あなたは学校で学んだ知識を生活で活かしきれている。しかし私のような人間、そんな知識はふだん使わない。せいぜいシグマと掛け算だけだ。つまり時代遅れの詰め込み教育をしたところで子どもたちは何も学べない。

日本の教育は遅れている。時代についてきていない。

時代の先を進んでいる自称プログラマーとして思うのは日本の教育には無駄が多すぎるといことだ。子どもたちの自尊心と自主性を奪い、本当にやりたいことから目をそらさせ、先生様のお話を聞いたところで紙に書かれた数字にプラス1されるだけである、典型的な社会主義国家の教育方法である。他の子達と違う行動をすればさらし首、さらには大学という木を見て森を見ずな夢を強要される。

これの何が教育だというのだろうか。調教の言い間違いであろう。たとえ知識を詰め込んだところで作れるのはからくり人形だけである。

こんな社会不適合者の考えに共感できたあなたには学校で失った自主性と自尊心を取り戻してほしい、それが楽しい人生を生きるための一歩なのではないかと私は一人で妄想している。